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無幸処(悪趣)の門を閉じる法
5.
悪趣の門を閉じるため 努力することの勧め
ヴィパッサナー瞑想を実践しないのは正しく簡単な方法を知らないからです。根本原因は人々が難しいと思っていることです。
四念住法の中に身随観が六部、受随観が九部、心随観が十六部、法随観が五部、全部で三十六部有ります。
身随観念住法を強調して念じるので始めに出息入息の部から出息入息(アーナーパーナ)瞑想法を念じます。アーナとは出息、パーナとは入息、アーナとパーナをまとめるとアーナーパーナに成ります。出息入息を念じ念住法を実践するならば身随観念住法、出息入息の部です。出息入息を気づき続けるならばサマーディ、定が強くなります。座法(座禅の仕方は別紙にあります)を規則正しく習ったならば、長い間座れるようになるために努力する必要があります。修行者の体は四大種よって作られています。四大種はお互いに対になって引き合っているように競争して強い方が顕著になり、その大種の自性相
(Sabhæva lakkha¼a)が表れます。
足が痺れてきたら地界の自性相、お尻が熱くなってきたら火界、胸が詰まってきたら水界、身体が揺れてきたら風界です。それらの四大種の変化を「私の足が痺れている」と思ってしまったら悪趣に落ちるでしょう。「私」は邪見、「足」は邪見、痺れ、痛みは邪見、全部で三重の邪見と想が間違っている限り悪趣に落ちるでしょう。
その様に「足が痺れる」「お尻が熱い」「胸が詰まる」「顔か痒い」などは「受」と念じることは、釈
尊が定めた存在施設(vijjamæna paññatti)
となり「受想」と呼びます。受一つで念じると、足が痺れても受、お尻が熱くても受、揺れても受、胸が詰まっても受と受一つで念じなければなりません。
その様に六門から見える、聞こえる、嗅ぐ、味わう、触れる、知る全てを受と念じなければなりません。身体がどの様に変化しても全て受です。
その受一つの上に一心に止まるようにすることはサマタになります。ヴィパッサナーに移っていません。
その様に一心になってきた事を「一つの法」一境性になっていると言えます。その受を観察しているとき、少しずつ荒くなってきたら受の始め、受の中間、受の終わりを見るでしょう。受が強くなってきたらアーナーパーナを強めて受を我慢して念じます。ある人は受を恐れて姿勢を崩したくなります。受が強くなれば息を強くし、受が弱くなれば息を緩めなければなりません。その様に受一つを始め、始めの次が中間、中間の次が終わり、生じては止まり、止まっては尽きる。パーリ語でウパーダ、ティーティ、バンガ、(生、住、滅)生じては滅することに出会うでしょう。一座で体験できます。
生じては滅することを体験した修行者はヴィパッサナーの智慧を得、念じて滅を一度体験した人は心行が一度滅した人となり生滅智というヴィパッサナー智を得たので今生、今生のためには悪趣の門を閉めたことになります。一座で生滅の性質を見たならば悪趣の門が閉まります。
その様に修行者たちは法の本来の能力を知り、悪趣に落ちる様子を知り、人身の得がたさを知り、ヴィパッサナーを実践する本来の理由を体験し悪趣の危険
から自由になれるように努力するように特にお勧めします。
悪趣が閉じた後ヴィパッサナーの智慧が段々と成熟した後、受一つの生滅を見、生滅を嫌うようになり、最後には生滅が尽き、受想から受智となり到達できます。
受とは感じることと言う性質を洞察し勝儀諦の性質を知り特別な智慧を得たことになります。
苦相を威儀が隠し、怒りが生じるので威儀(行、住、座、臥)を一切変えないで苦相をはっきり念じ苦相、原因が尽きるように知ったならば人施設と名施設を取り除き下結三種という邪見(間違った見解)、疑(疑い)、戒禁取(実践についての間違った考え)を完全に取り除いた人、預流者(悟りの第一番目)になります。
その後一段一段と更に向上するように、続けて修行できるように聖者になる表を学んで実践することにより悪趣の閉じるだけでなく涅槃を実現できるようにがんばりましょうと勧めて結びといたします。
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聖者の成り方 |
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四相 |
覆い |
生起 |
施設除去 |
聖者 |
| 無常 |
持続 |
慢 |
持続
十結全て除去 |
阿羅漢 |
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無我 |
厚 |
無知 |
厚
下結五つ除去 |
不還者 |
| 不浄 |
浄 |
貪 |
形状
残りの結を弱める |
一来者 |
| 苦 |
威儀 |
瞋恚 |
人、名 下結三種除去 |
預流者 |
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